商船高専2年のある日、あまり親しくない友人Nから頼まれた。
「俺の彼女が友達を連れて来るんだけど、一緒に来ない?」
あまり気が進まなかったが、さほど仲良くもない私に話を持ってきたのは、
親しい友人たちに断られたからだろう、とNに同情した私は、承諾した。
Nの彼女は尾道の高校に通っていて、名前は良子。
商船寮のある島からフェリーに乗り、尾道港に近い喫茶店 time time で4人で会った。
良子は私を見るなり、こう言った。
「あ~、久米さんに似てる! ね、名前は?」
久米さんとは、若い頃の久米宏さんのこと。
当時『ぴったしカン・カン』というクイズ番組の司会をしていた。
良子の友人の女の子は、気乗りがしないのか、
ずっと、うつむき加減で、言葉少なだった。
Nも、どちらかというと無口で、話に相槌を打つばかり。
場の空気を何とかしようと話を盛り上げる良子と、私。
おのずと良子と私の間で、話が盛り上がる。
「ね、〇〇ちゃんって呼んでいい? 〇〇ちゃん、珈琲は何が好き?」
「え? あ、ああ・・キリマンジャロ。」
私はメニューで真っ先に目に入った、飲んだこともない珈琲の名を口走った。
「へぇ、大人なんだ。私はねぇ、ウィンナーコーヒーが好き。」
ウィンナーコーヒーなるものを、私はこのとき初めて知った。
良子と私は、2人ですっかり盛り上がり、やがてNの話題に。
すると良子は、Nに向かって、
「え? 私たち、付き合ってないもんね? 電車で知り合っただけだもん。」
私は、あわてて話題を切り替え、4人はボーリングをすることになった。
そして、夕になって私たちは、それぞれの帰路についた。
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ひと月ほど経ったある日、良子から私に宛てた手紙が、寮に届いていた。
「2人で会いたい。」
私は、Nの手前、「会えない」と返事を書いた。
寮に届く手紙は玄関先のカゴの中に山積みされるので、誰の目にも留まる。
良子から私に宛てた手紙をNが目にするのが嫌で、私は良子に、
手紙も送って来ないでほしいと断った。
それで終わったはずだった。
良子から再び手紙が来た。
「 time time のノートを読んでほしい。」
time time にはノートが置いてあり、客がそれぞれに想いを書き綴っていた。
私はノートを見に行ったが、そこに何が書かれていたのか、今は覚えていない。
そしてその日から、海を隔てた良子と私の、うた恋い(※)のやり取りが始まった。
良子は、学生結婚に憧れていて、京都の女子大に進学したいと書いていた。
私も、京都の大学に進学したいと思った。
漫画『はいからさんが通る』に登場する編集長・青江冬星が好き、ともあった。
私は、出版社に勤めようかと考えた。
寮では、床の中でハイネを、ボードレールを、ランボオを読んだ。
逢えない時間が、想いを募らせた。
数か月が過ぎたある日、良子がノートに書いていた。
「今度の祝日、Nと2人で time time に来て欲しい。私も友達を連れて来る。」
time time で待ち合わせた4人は、良子の提案で千光寺山に登ることになった。
頂上の千光寺まで幾つかのコースがあるので競争しよう、と良子は言った。
4人はそれぞれのコースに分かれて、バラバラに頂上を目指すことになった。
千光寺の境内に辿り着いた私が周りを見渡すと、まだ誰の姿も見えなかった。
しばらくして、息を切らせてこちらに向かって走って来る、良子の姿が見えた。
良子は、私の前まで来ると、大きく一呼吸してから、言った。
「〇〇ちゃん・・・キスして。」
私は驚いて、たじろいだが、良子がまっすぐ見据える目に
吸い寄せられるように、良子に向かって歩いた。
そのとき、だった。
「お~い! 早いな~!」
Nだった。
次の瞬間、良子が私に向かって小さな声で叫んだ。
「〇〇ちゃん、違うの! 違う!」
・・・なに、が? ちがう? ・・・私は、良子の言葉の意味が分からなかった。
そこに、良子の友人が辿り着き、4人が揃った。
良子は、何ごともなかったかのような話をし始めた。
その後、展望台のレストランで食事をしたが、何を話したか、まったく覚えていない。
ロープウェーで下山した4人は、それぞれの帰路についた。
それから、何度か time time に足を運んだが、ノートに良子の記述はなかった。
良子からの手紙も来なかった。
良子に手紙を書いたが、返事は遂に来なかった。
一つだけ分かったことは、良子は千光寺山に登るコースの一番の近道を、
自分自身と私のために用意していたのだろう、ということ。
卒業後、就職した私が再び訪れたその場所に、time time は、もう、なかった。
すべてが幻だったかのように、恋だったのかさえも虚ろな、甘酸っぱい思い出。
あのときの、良子の「違う」の意味は、いまも分からない。
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※うた恋い 平安時代、男女は互いに会うことなく、
歌を交わし合って、想いを伝え合った。
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※「GARA DANIKKI」のmarcoさんが、
アルパカワインをご紹介くださいました! marcoさん家の食卓に並ぶと、
いちだんと美味しそうです。marcoさん、ありがとうございます!!