※今の時期、震災の話題は目にしたくないという方は、どうぞスルーしてください。読んで頂ける方、ありがとうございます。感謝いたします。
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死者数6433人。戦後2番目に多い災害死者数だった阪神大震災から3ケ月ほど経った平成7年4月、歌手の河島英五さんが、若いミュージシャンたちと共にJRの高架下や公園でチラシを配っていました。
「生きてりゃいいさ」
そのチラシには『4・29大阪城野外音楽堂 復興の詩チャリティーコンサート』と書かれていました。河島英五さんの呼びかけに賛同したイルカ、BORO、桑名正博さんらがノーギャラで参加し、チラシ配りさえ業者を使わず、河島英五さんと仲間たちが手配りして費用を抑えるという、徹底したチャリティーコンサートでした。
死者を悼んで大きな悲しみに心塞いでいる人々の一方で、自分や家族が生きていたことに安堵の胸をなでおろす人たち。そんな複雑な感情の交錯の中で、多くの人が言葉を呑み込み、沈黙を強いられた、そんな痛ましい災害でもあったように思います。
そんな中、河島英五さんは「自分にできることは何か」を考えに考え抜いて、やはり「歌うこと」だと決心されたそうです。「こんなときに音楽?」・・そんな声も少なくなかった中、歌うことはとても勇気のいる行動です。
何人が集まってくれるか分からない中、当日、大阪城野外音楽堂には、チラシを手にした大勢の人たちが集まりました。そしてこの日、まだ震災の傷跡深い阪神に復興の詩(うた)が響き渡ったのです。
多くの寄付金も集まり、コンサートは大成功。寄付金は復興のために寄付されました。そしてコンサートが終わった後、英五さんは、こう宣言しました。
「本当の復興には長い時間がかかる。すべての経費を自己負担して今後10年は【復興の詩チャリティーコンサート】を続けるつもりです」
その約束どおり『復興の詩』は、平成16年の第10回まで続けられました。そんな『復興の詩』で歌われた歌の中でも、もっとも人々の胸を打ったと言われている歌があります。
「生きてりゃいいさ」
英五さんはこの歌をコンサートだけでなく、阪神各地の公園で、神社の境内で、道端で、歌い続けました。そのため阪神間の多くの人が、この歌を覚えています。
復興の詩10年
ただ、英五さんが約束した10回目の『復興の詩』のステージに、英五さんの姿はありませんでした。第7回『復興の詩』直前に、48歳の若さでこの世を去った英五さんは、第7回のステージに遺影の姿となって参加しました。
英五さんの遺志は、音楽活動をしていた3人のお子さんたちによって引き継がれ、第10回『復興の詩』までの約束が果たされたのです。その第10回『復興の詩』で得られた収益金は全額、震災遺児の育英のために寄付されました。
音楽、スポーツにできること
神戸では仰木彬監督が率いるオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)が、選手寮に備蓄していた水や食料を神戸市民に提供。選手たちも積極的に復興に携わりました。本拠地球場が被災し、練習もままならない中、「がんばろうKOBE」を合言葉に快進撃を続け、ブルーウェーブはその年、リーグ優勝を果たしました。
スポーツ誌Numberは「後の東日本大震災で、スポーツに何ができるかと多くの人が考えるのも、’95のオリックスの戦いがあったからだと思うんです」と書いています。
宝塚では、宝塚歌劇団のチャリティーコンサートが開かれました。同じ年、遠く離れた横浜アリーナで「阪神淡路大震災チャリティーライブ」を催して阪神に届けてくれたレベッカのNOKKOさん。泉谷しげるさんや森高千里さん、他にも多くの方々。
「音楽やスポーツにできること」がいかに大きなものだったかは、後の東日本大震災での多くのミュージシャン、スポーツマンの活動が証明していると思います。
そして九州へ
4月16日は河島英五さん没後15年の命日でした。大阪国際交流センターで「あれから15年。父の唄を、娘が歌う、河島英五&河島亜奈睦スペシャルコンサート2016~生きてりゃいいさ~」が催されました。
アンコールでは英五さんの映像に合せて「生きてりゃいいさ」をデュエットする親子共演が初めて実現しました。
亜奈睦(あなむ)さんは、東日本大震災の際にも被災地で父の唄を歌いました。そしてステージ上で、熊本で支援ライブを行い被災者の人たちに寄り添うことを誓われました。
『酒と泪と男と女』で有名な河島英五さんですが、私が好きなのはこの2曲です。もし興味ある方はご一聴頂けると嬉しいです。
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熊本地震で被災された「あすとれいろーど」(id:astrayroad)さんの4月24日の記事に心打たれました。特にこの言葉に。
「九州は、熊本はこんなもんじゃへこたれない。格闘家の高瀬大樹選手風に言わせてください。九州最高!!熊本最高!!人生超絶好調!! やってやる。」