私にとっての母は、祖母。
10歳のとき、1年だけ祖母と共に暮らした。
この、たった1年が、その後の人生の支えとなった。
祖母のしつけは厳しく
何度も灸(やいと)を据えられて
背中にはいつもヤケドの跡が残っていた。
夏になると、海やプールで友達に揶揄された。
左利きを無理やり、右利きに矯正され
トレードマークだった八重歯は糸をからめて無理やり抜かれた。
学校で女の子のスカートをめくって泣かせたときは
はたきの柄で、手の甲を何度も叩かれてミミズ腫れになった。
私に初めて本を与えたのも祖母だった。
少年少女文学全集と百科事典。
娯楽のない瀬戸内の島で
雨の休日は、本が宝物になった。
1年が過ぎ、祖母のもとを離れた後も
「母の日」には祖母に贈り物をした。
カーネーションとか、裁縫道具とか
小銭で買えるものしか贈れなかったけれど。
祖母が私の進路について口にしたことはなかった。
そんな祖母が、私が商船高専に入学したとき
誰よりも喜び、祝ってくれた。
◆
祖母は畑仕事をしながら、ずっと1人で暮らしていて
97歳で静かに息を引き取った。
祖母の友人がそれを発見し、東京で働いていた私に教えてくれた。
土間のパイプ椅子に座っていて、肩を叩いたら
そのまま崩れ落ちて、すでに息が無かったそうだ。
葬儀のため東京から駆けつけた私に
集まっていた人たちが、仏壇を指さした。
仏壇の棚には「葬儀費用」と書かれた祖母自筆の封筒と遺言書
そして私が祖母に送り続けた仕送りの封筒たちが
手を付けられないまま、供えられていた。
封筒の束の一番上に、こんなものが置かれていた。
祖母と暮らしていたとき通った島の小学校で
授業に必要な道具を、ばあちゃんに「買って」と言うことができず
私のもう一人の母代わりになってくれた担任<兼>校長の女先生から
渡されてランドセルにしまっていたのを
ばあちゃんが見つけ出した「わすれもの」メモ。
瀬戸の小島の小さな小学校に当時コピー機なんてシャレたものはなく
昔ながらの古いガリ版刷りだ。
「おばあ、こんなもん、ず~っと大事に取っといたんやなぁ・・・
1年しか一緒に住んどらんかったのになぁ・・」
叔母の旦那さんが、そう言って、泣きだした。
その涙が引き金になって参列者たちが皆、泣いた。
◆◆
先日、ふと「わすれものメモ」のことを思い出し
探してみたら、古い手帳のポケットから出てきた。
「わすれものメモ」を読んで、笑った。
笑った後、おえつが込み上げてきて
押さえきれない涙が溢れてきて、止まらなかった。
・・・ばあちゃん・・
荒れそうになったこともあったけど
ばあちゃんに顔を合わせられないことだけはしないと
思いとどまったよ。
葬儀からしばらくたって
ドン底に叩き落され
何もかも失って独りになったとき
ばあちゃんの顔が浮かんだよ
あきらめないで立ち向かうことができたのは
ばあちゃんのおかげだよ。
ばあちゃんがしてくれたこと
思い出そうなんて、しなくたって
忘れたこと、なかったよ。
ありがとう。
ばあちゃん。
◆05.06 isaku
I ’m honored to be your grandson