手書きチラシ・2色チラシで集客万来

2色チラシと手書きチラシで集客

下校時の【青木まりこ現象】についての考察

 

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 (文の里商店街より)

 

ブログを休む前、『猫になりたい』の涅子さん id:tsubakimoto_neko の記事に「ウンコ踏みまくりです。でも、野グソ見られた時よりは恥ずかしくないです。」とコメントしましたところ「その野グソの話をぜひブログに書いてください(切望)」とのコメ返を頂きました。引くに引けなくなって記事にしていましたが、出すに出せなくなっていました。今日、踏ん張って一気に放出します(笑)

 

 

青木まりこ現象」とは

  

青木まりこ現象」なるものをご存知でしょうか? これは書店に足を運んだ際に突如として便意をもよおす現象のことで、1985年に青木まりこさんが言及したことに由来しています。この現象が起こる理由については諸説あります。

①本のインクのニオイ便意が引き起こされる

気持ちがリラックスして便意が促される

③膨大な本の中から本を探し出さなければいけないプレッシャー

④本のニオイがトイレットペーパーを連想させる

 

謎はいまだに解明されていないようで、どれも可能性としてはありそう。また、人によっては書店以外にも便意をもよおすシチュエーションがあるようです。一例を挙げると、スーパーの冷凍食品売り場、朝の通勤電車の中、病院の待合室、エッチの直前、などなど・・

私の場合は、なぜかお風呂に入ろうと素っ裸になった途端に、大や小をもよおしてトイレに駆け込みます。皆さんも隠している突然便意ってありますよね? ね?(笑)

 

少年よ、懐紙を抱け

 

この「青木まりこ現象」について知った時、私はあることを思い出したのです。それは私が中学生の時のことでした。

私は何故か毎日のように、帰宅途中の田んぼでをもよおしていました。なぜ田んぼなのかというと、田んぼのあぜ道を通って学校に行き来するのが近道だったのです。その田んぼはこんな感じで、すぐ近くに電車が走っていました。 

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 (写真はイメージです)

 

この写真でいうと、右側の田んぼでをもよおすのです。もよおした私は、右尻と左尻をよじり寄せながら内股に早歩きして何とか家に持ち込もうとするのですが、毎回どうしても間に合わず、田んぼでをすることになってしまうのです。

 

ある時、田んぼでをしていたところ、遠くから電車が来る音がしてきました。電車の中から見られてしまうかも、と思いつつ「出すは一瞬の恥、出さぬは一生の恥」と思って放出していたのですが・・

 

すると、どうでしょう!(ビフォー&アフターの音楽スタート) 電車がキキーッツという大きな音を響かせたかと思ったら、スピードを落としながら徐々に近づいてきて、なんと計ったかのように目の前で止まったではありませんか。こんな感じで。

 

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 (写真はイメージです)

 

しかも、正面の扉の窓のところに・・なんということでしょう! 女学生が立って、じっと私を見つめているではありませんか。

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(写真はイメージです)

 

逆から見ると、こんな感じでしょうか。 

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 (写真はイメージです)

 

目と目が合って、どれくらいの時間が過ぎたことでしょう。

普通、目と目が合ったら互いに照れくさくって、すぐに目をそらすと思うのですが、彼女、こちらを凝視したまま、まったく目をそらそうとしません。

私は私で、人生の中でこれほどにカムフラージュしようがない状況に未だかかつて遭遇したことがなく、ただただ自然の摂理に任せてアタフタするほかありません。

そうこうするうちに出るものがすべて出て、私はしゃがんだままポケットをまさぐり、懐紙を探しました。ところが・・・

 

・・・ない!

 

外ポケット、内ポケット、胸ポケット、どこをまさぐっても、懐紙がない・・・

私は、おそるおそる電車の女学生をチラ見しました。相変わらずこちらを凝視していました。私はできるだけ平静を装いながら、次の一手を考えました。

あ、そうだ! 鞄の中にノートが入ってる! ノートをくしゃくしゃにすれば何とかなる! そう思った私は鞄に手を伸ばし、中をまさぐりました。すると、なんと! 鞄のサブポケットに、ハンカチとチリガミが入っていたのです!

天の恵みとは、まさにこのこと! 腹の底から湧き上がってくる勝ち誇ったかのような安堵感と共に、私はもう一度、電車の彼女をチラ見しました。すると彼女は、こちらを見たまま、満面の笑みでニッコリしてくれたのです。ちょうどその時、彼女を乗せた電車は再びゆっくりと走り始めました。

 

彼女の顔はまったく思い出せないのですが、あの満面の笑みだけは、いまだにしっかりと脳裏に焼き付いています。 

その後の私は、もう一度あの彼女に会えるかもしれないと思い、あの時と同じ時間帯に田んぼを何度も通ったのですが、彼女と再会することはできませんでした。

・・あのぉ・・・まさか、これ・・恋じゃないですよね?(笑)

 

うん〇の仕方48手

 

この記事を書くにあたって、モノがモノだけに当初は写真ではリアルすぎると思い、使えるイラストを探してたんです。そしたら、夏の暑さで頭が変になっていたんでしょうね、変なイラストサイトを探し当ててしまって・・・

 

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これ、何だと思います? 

『うんこの仕方 48手』っていう、イラストサイトですって。

 

上のイラストが「4点支え」というの仕方で、かなりの筋力が必要とされるそうです。

下が「ところてん」というの仕方で、ニュルっと出てくる様子を模したスタイルなのだそうです。 

気になる方は是非、検索してみてくださいね(^-^)

 

 

 

 結論にかえて

 

さて、肝心の考察なのですが、中学時代の私は部活の帰りにカイグイをしていて、お好み焼きやラーメンやおでんを食べていました。これが腸内に残存しているモノを押し出すタイミングが、ちょうど田んぼに差し掛かった辺りだったのでしょうね。田んぼの青草のにおいが原因ではないと思われます。

当時は原因を考えようともしていなかったので、同じことを繰り返していました。なぜ田んぼで便意をもよおすのか、大きな謎だったのです。「謎」って、そんなものなのかも知れませんね。

 

  

  

チラシの耳★被ばくした警察官の息子が歌った歌と、厳格な牧師の息子が歌った歌。

 

 『8月の歌』 Hard Rainが子供らの肩を打つ

 

私が通った商船高専の物理の教授は、戦艦大和の設計者の一人で、カミカゼ特攻隊や人間魚雷「回天(かいてん)」の悲劇について話を聞き、『きけ、わだつみのこえ』を読んだ。戦地で殺した敵兵が今も夢に出てきて、眠れないという教授もいた。

英語の教授は第2次大戦を体験したアメリカ人で、「カミカゼ」や「カイテン」はアメリカにとって「テロ」と同等に捉えられていると知った。

戦争被害は原爆だけではないし、日本だけでもない。日本は日清・日露・第1次(あまり知られていないが日本も参戦し中国の青島や南洋諸島を攻略した)・第2次大戦と、消すことのできない加害の傷跡を世界のあちこちに数多く遺した。

 

社会人になって東京で働いていたある日、私より年上のヒロシマ生まれの浜田省吾さんが発表した2枚組アルバム『J.BOY』を聴いて、その中に収められた1曲に心を揺さぶられた。

その曲の名は『8月の歌』。歌詞の概要はこうだ。

 

 修理車を工場へ運んでいる途中、俺が見たのは

 砂浜で戯れている 焼けた肌の女の子たち。

 この国は豊かだというけれど、俺の暮らしは何も変わらない。

 何一つ誇りを持てないまま意味もなく年老いて、

 報われず、裏切られ・・・ ・・・

 

 8月になるとヒロシマの名のもとに平和を唱えるこの国

 アジアに何を償ってきた?

 俺たちが組み立てた車が

 アジアのどこかの街角で焼かれるニュースを見た。

 

 雨が子供らの肩を打つ。飢えていく。すさんでいく。

 明日への希望など持てないまま・・・ ・・・

 

 

浜田省吾さんの父は警察官だった。ヒロシマ原爆投下直後に、救援隊の一員としてヒロシマ入りして2次被ばくしている。1952年生まれの浜田省吾さんは被ばく2世だ。それゆえ人一倍、ヒロシマには特別な思いがあるという。 浜田省吾さん本人は『8月の歌』を作った背景について、こう語っている。

 

「8月6日の原爆記念日が来るたびに広島が騒がしくなってデモが起き、いつも被害者の立場から戦争を語るということへの疑問みたいなものについて歌いたくて、“8月の歌”を作った。」

 

また別の場面では、こうも語っている。


「日本という国は終戦からずっと8月6日に必ず被害者の立場で戦争を語るが、前の戦争で朝鮮半島・中国大陸・東南アジアに対して本当に酷いことをしてきたにもかかわらず、常に被害者の立場で語ることに、広島出身でありながらも違和感を感じる。」

 

戦後、この国は豊かさを求めてきた。

高度成長期、バブル、バブル崩壊アベノミクス・・・

世界では、あの戦争の後もずっと戦争が続いている中、

本当に平和になったのだろうか。

私たちは豊かになったのだろうか。

 

 今日もHard Rain is Fallin'

 心にHard Rain is Fallin'

 雨が子供らの肩を打つ。

 飢えてゆく。すさんでゆく。

 明日への希望など持てないまま・・・

 

 満たされぬ想い から回りの怒り

 8月の朝はひどく悲しすぎる

 No Winner  No Loser ゴール無き闘いに

 疲れて、あきらめて、やがて痛みも麻痺して

 狂気が発火する。

 

 

一聴すると絶望的にも聴こえるこの歌詞は、

しかし、移り変わる時代の中で決して見失ってはならないものを、

力強く教えているように思う。

 

勝者もなく敗者もない、 ゴール無き闘い。

経済成長=平和なのか。それとも経済成長=戦争なのか。

Hard Rainは原爆の黒い雨ばかりではない。

今日も、いつの日も、

子供らの肩に、 Hard Rainを打たせてはならない、と思う。

 

 ~~~~~

この国では「どんなに傷ついたかわからないのか!」という叫び声にみんな平伏してしまうという構図が見られますが、それはおかしい。すべての人が「他人の痛みがわからない人」を悪魔のように責めたて、そうワメキ散らす人のより一層の暴力を指摘しようとしないのです・・・中島義道(哲学者・作家)

 

 

『What's Going On』いったい何が起こってるんだ?

 

1971年、ベトナム戦争のさなかにマービン・ゲイモータウンレコードから発表したアルバム『What's Going Onホワッツ・ゴーイング・オン)』は、アメリカ社会に大きな衝撃を与えた。

それから半年余り遅れてジョン・レノンが『イマジン』を発表。レノン&ヨーコが『ハッピー・クリスマス』を発表して、反戦を訴えた。そして、ベトナム反戦の波は全米を覆っていった。

 

マービン・ゲイは厳格な牧師の息子として生まれた。彼が音楽に没頭するきっかけとなったのは、父親の常軌を逸した躾(しつけ)と精神的虐待であったと言われる。

マービンはベトナム戦争に派遣された弟からの手紙で、想像を絶する悲惨な実態を知る。そして復員してきた弟と再会し、ベトナム戦争のさなかにアルバムの楽曲を書き上げた。

 

そのアルバム『What's Going On』は完成度の高い華麗な楽曲でまとめ上げられた名作だが、容易に世に出たのではなかった。国を挙げての戦争のさなかに、黒人が当局に物申すような楽曲を発表することは、当時としては在り得ないことで、タブー中のタブーだった。レコード会社は当然、このアルバムの制作に反対した。そのため、このアルバムはマービン自身がセルフプロデュースで制作したのである。

 

アメリカ政府によるベトナム戦争アメリカ企業による公害、アメリカ社会の極端な貧富の差と、それに対する苦悩を赤裸々に熱唱したこのアルバムは、全米No.2の大ヒットを記録した(ジョン・レノンのイマジンは全米No.3)。

自分が感じたことを誰にも干渉されずに、ありのままに作品にまとめ上げて発表したマービンの勇気ある姿勢は、同世代のアーティストたちに多大な影響を与え、その影響はアメリカ全土ばかりか世界中に広がり、マービンに続くアーティストが次々に自らの思いをありのままに書いた曲を発表するようになった。その影響は現代のミュージシャンにまで脈々と受け継がれている。

マービン自身は私生活では波乱万丈の人生を送り、1984年4月1日、自宅で父親と口論になり、逆上した父親がマービンに発砲して、彼はそのまま帰らぬ人となった。奇しくもその日は、彼の45回目の誕生日の前日であった。父親が発砲した銃は、父親がマービンにプレゼントしたものだった。

 

アルバムのタイトルにもなった『What's Going On』。直訳すると「何が起こってるんだ?」といった意味だが、邦題は『愛のゆくえ』。邦題と美しいメロディーからは、この曲の内容は想像もつかないと思う。 

ジョン・レノンの『イマジン』は反体制の歌詞ゆえに放送禁止になったが、マービンのこの曲は放送禁止になっていない。どこにもはっきりとした反体制のフレーズや宗教・思想が出てこないからだ。そうしたフレーズ抜きで、聴く人の想像力・魂(ソウル)に訴えかけることで、世に出ることができたのである。

完璧なまでに美し過ぎるメロディーに乗せた、静かだが力強い魂の叫び声。単に反戦を歌ったのではなく、家族愛と人間愛がその根底に流れている。できれば映像も見てほしい。This is music! これぞ音楽。

  

(私訳)

ああ・・母さん・・母さん・・

たくさんの母親たちが泣いているんだよ・・

なあ弟よ・・

たくさんの数えきれない兄や弟たちが死んでいる・・

おまえも分かってるはずさ、

僕らは解決の道を見出さなきゃならない。

愛する人たちを今日、ここに連れ戻すために。

 

ねえ、父さん。

もうたくさんだろ? エスカレートしちゃいけない。

分かってるはずだ、戦争は答えじゃないって。

憎しみに打ち克てるのは愛だけなんだから。

そうだ、探さなきゃいけない。

今日ここに愛をもたらす方法を。

 

 

デモ隊の列、掲げられたスローガン

暴力で僕を押さえつけようとしないでくれ

こっちにきて話してくれよ、

何かが分かるかも知れない。

 

いったい何が起こってるんだ?

世界はどうなってしまったんだ?

ねえ、何が起こってるんだ?

ああ、いったい何が起こってしまってるんだ・・・

 

ねえ、教えてよ、いったいどうなっているのかを。

僕からも話すよ、何が起こってしまったのかを・・

 

僕らは互いに分かり合う方法を探さなきゃならない。

まともなことをしなきゃ。 

まともなことを。 

まともなことをしようよ。 

なあ、そうだろう?

 

いったい何が起こってるんだ?

世界はどうなってしまったんだ?

ねえ、何が起こってるんだ?

ああ、いったい何が起こってしまってるんだ・・・

  

 

 ◆  

 

今年もヒロシマは、デモ隊のシュプレヒコールの波。

そして、米大統領と日本の首相が「世界平和」を語った。

「2度と悲惨な経験を繰り返させてはならない」と。

同じ口で、この2人はISILを断固として許さないと語り、

惜しみなく武器を供与すると約束したばかりだ。

 

 

 満たされぬ想い から回りの怒り

 8月の朝はひどく悲しすぎる

 No Winner  No Loser ゴール無き闘いに

 疲れて、あきらめて、やがて痛みも麻痺して

 狂気が発火する。

 

 

 What's Going On・・・

 

 

  

船の学校アルアル

 

少し前の記事へのコメントで、私が通っていた船の学校についてご質問を幾つか頂きましたので、商船高専のお話を。

商船高専って、どんな学校?

俳優の北村一輝さんの出身校ということで、ちょっとだけ話題になったことがある商船高等専門学校。ヨットの世界大会で4位に入ったことでも、ちょっとだけ話題になりました。

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誰もが彼のように濃い顔をしている訳ではありませんし、ローマ人でもありません。ちなみに、ジブリ映画コクリコ坂からの主人公のお父さんが商船大学か商船高専の出身で、映画の中にちょっとだけ出てきます。  

船を操縦する免許には大型(20トン以上)と小型があり、大型免許(航海士・機関士)は甲種(外国航路)と乙種(国内航路)に分かれます。

国立商船高等専門学校(日本全国に5校)は、甲種の上級士官免許を取得する教育機関で、席上課程4年半+航海実習1年の計5年半。乙種は水産学校・海員学校等で取得します。  

現在は男女共学で(くそーっ悔しい)、船舶以外の学科もありますが、以前は男子のみの全寮制で、航海科と機関科だけでした。

 

 『海猿』+宝塚音楽学校÷2

 

商船高専を分かりやすく形容すれば、海猿宝塚音楽学校 ÷ 2

訓練は映画海猿にちょっとだけ近いものがあります(バディとの潜水訓練はなく加藤あいはいません)。礼儀作法は宝塚音楽学校にちょっとだけ近いものがあります(あんなに女子力高くありませんが)。 

寮生活は、4人で2部屋(勉強部屋と寝室)を共有。訓練で裸の付き合いをし、同じ釜のメシを食らい、同じ部屋で暮らすと、打ち解けるのは早いです。

 

1年奴隷・2年兵隊・3年人間・4年士官・5年天皇だったかな? うろ覚えですが、そう言われていて、1年生は年中、奴隷服 セーラー服を着て過ごします。セーラー服といっても、スカートではないですよ。はきたかったですが こういうのです。

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外出時や行事の際は、濃紺の制服を着ます。

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分かりづらいですが袖に3つボタンが横並びに付いていて「魔除け」「水難除け」「女除け」と言われていました。

2年生、3年生になっても彼女ができないと、ボタンを1つはずすヤツが1人、また1人と現れ始めます(笑)

 

1年生は、上級生の顔を見てはいけないので、常にうつむいて生活します。歩いていて先輩とすれ違うと、直角以上に体を折り曲げてをしなければなりません。

登下校の際、自転車で通う先輩たちとすれ違うたびにをするので、キツツキのようです。電信柱や知らない人にキツツキするのも日常茶飯事。 

宝塚音楽学校の1回生は阪急電車にもをします。電車の中に先輩が乗車している可能性があるからです。似てるでしょう? え?違う?

 

俺・僕・自分・アタシ・・ぜんぶダメ

 

私は自分のことを「私」と言うのですが、商船校時代についたクセです。商船高専では自分のことを「私」と言うことしか許されません。

でも中学まで「俺」って言ってたら、つい「俺」って出ちゃいますよね? つい言っちゃったら、 殴られ蹴られボコ 可愛がられます。寮長である空手部の主将に。 

なので絶対に「俺」とか言わないように、1年生はスリッパに「私」とマジックで書くんです。

 

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うつむいて生活してるので、常にスリッパの「私」が目に入ります。だから言い間違わない、というわけです。私は1度だけ可愛がられました。

 

食事は5分以内に食べなければなりません。お椀の持ち方や、肘の位置や角度まで定められています。 

そんな商船生活の名物といえば、インキンタムシになった〇ン〇ンの甲羅干し。過去記事にありますので興味のある方どうぞ。  

levites.hatenablog.com

 

地獄のタンツー

 

椰子の実で船の甲板を磨くことを「タンツー」といいます。

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これがキツイんですが、寮生活で誰かがポカをやらかしますと、連帯責任で学年全員が寮の廊下でタンツー訓練をやらされます。 

雑巾がけなんですが、朝の起床に1秒でも遅れたり、ボタンがほつれているだけでタンツーですから、週に1回位はあります。

廊下の端から端まで100mとして、20往復で2km。何人かは必ずヘドを吐いてぶっ倒れます。それでも尻を蹴られて続けなければなりません。

 

どうでしょう、ウンザリしましたか? 私も、しました(笑)

 

数少ない楽しみは、やっぱりアレ

 

そんな中で、ちょっとだけ楽しみと言えば、寮の地下に隠れてやる麻雀と・・・詳しくは後ほど。 

最後の1年の航海実習、当時は日本丸海王丸に乗船して外航しました。

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小さすぎて見えないかもしれませんがマストに商船生が登っています 

 

外航から戻って来る先輩のお土産が、下級生にとっては何よりの楽しみでした。そのお土産とは、美しい外国人女性たちがニッコリとほほ笑んで躍動している、フルカラーの綺麗な雑誌です。なぜか税関を通過できないシロモノで、そんなシロモノがネットに溢れている今と違って、当時は滅多にお目にかかれない貴重品。この時ばかりは上級生と下級生の間にある「ベルリンの壁」が撤廃されるのです。

 

そして最大の楽しみといえば、カノジョからの手紙と 面会 デート。私にも初恋がありました・・

levites.hatenablog.com

 

       ◆

 

【おわりに】

高度成長期が終息し、外航や輸送の主力が航空機になると、船乗りの需要は激減しました。 私もマスコミ業界(企画・編集)に就職しました。それでも商船校での経験が役立つことがありました。 

海で溺れそうになったとき、慌てず騒がず諦めず、大きく息を吸い込んで仰向けに浮いて空を見上げ、体力を温存しながら陸に向かう潮の流れをつかんで身を任せ、助けを待ちつつ、ここぞというところで全力を出す。

「人生オワタ」と思うようなどん底で溺れずにすんだのも、商船校での訓練のおかげかも。

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祖母の日

 

私にとっての母は、祖母。

10歳のとき、1年だけ祖母と共に暮らした。

この、たった1年が、その後の人生の支えとなった。

 

祖母のしつけは厳しく

何度も灸(やいと)を据えられて

背中にはいつもヤケドの跡が残っていた。

夏になると、海やプールで友達に揶揄された。

 

左利きを無理やり、右利きに矯正され

トレードマークだった八重歯は糸をからめて無理やり抜かれた。

 

学校で女の子のスカートをめくって泣かせたときは

はたきの柄で、手の甲を何度も叩かれてミミズ腫れになった。 

 

私に初めて本を与えたのも祖母だった。

少年少女文学全集と百科事典。

娯楽のない瀬戸内の島で

雨の休日は、本が宝物になった。

 

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1年が過ぎ、祖母のもとを離れた後も

「母の日」には祖母に贈り物をした。

カーネーションとか、裁縫道具とか

小銭で買えるものしか贈れなかったけれど。

 

祖父が海軍、父が海上自衛官だったが

祖母が私の進路について口にしたことはなかった。

そんな祖母が、私が商船高専に入学したとき

誰よりも喜び、祝ってくれた。

 

  

 

祖母は畑仕事をしながら、ずっと1人で暮らしていて

97歳で静かに息を引き取った。

祖母の友人がそれを発見し、東京で働いていた私に教えてくれた。

土間のパイプ椅子に座っていて、肩を叩いたら

そのまま崩れ落ちて、すでに息が無かったそうだ。

 

葬儀のため東京から駆けつけた私に

集まっていた人たちが、仏壇を指さした。

仏壇の棚には「葬儀費用」と書かれた祖母自筆の封筒と遺言書

そして私が祖母に送り続けた仕送りの封筒たちが

手を付けられないまま、供えられていた。

 

封筒の束の一番上に、こんなものが置かれていた。

 

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祖母と暮らしていたとき通った島の小学校で

授業に必要な道具を、ばあちゃんに「買って」と言うことができず

私のもう一人の母代わりになってくれた担任<兼>校長の女先生から

渡されてランドセルにしまっていたのを

ばあちゃんが見つけ出した「わすれもの」メモ。

 

瀬戸の小島の小さな小学校に当時コピー機なんてシャレたものはなく

昔ながらの古いガリ版刷りだ。

 

「おばあ、こんなもん、ず~っと大事に取っといたんやなぁ・・・

 1年しか一緒に住んどらんかったのになぁ・・

 

叔母の旦那さんが、そう言って、泣きだした。

その涙が引き金になって参列者たちが皆、泣いた。

 

  ◆◆

 

先日、ふと「わすれものメモ」のことを思い出し

探してみたら、古い手帳のポケットから出てきた。

 

「わすれものメモ」を読んで、笑った。

 

笑った後、おえつが込み上げてきて

押さえきれない涙が溢れてきて、止まらなかった。

 

・・・ばあちゃん・・

荒れそうになったこともあったけど

ばあちゃんに顔を合わせられないことだけはしないと

思いとどまったよ。

 

葬儀からしばらくたって 

ドン底に叩き落され

何もかも失って独りになったとき

ばあちゃんの顔が浮かんだよ

あきらめないで立ち向かうことができたのは

ばあちゃんのおかげだよ。

 

ばあちゃんがしてくれたこと

思い出そうなんて、しなくたって

忘れたこと、なかったよ。

 

ありがとう。 

ばあちゃん。

  

 

05.06 isaku

 I ’m honored to be your grandson

 

 

 

 

 

4月29日、復興の詩が聴こえた

※今の時期、震災の話題は目にしたくないという方は、どうぞスルーしてください。読んで頂ける方、ありがとうございます。感謝いたします。

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死者数6433人。戦後2番目に多い災害死者数だった阪神大震災から3ケ月ほど経った平成7年4月、歌手の河島英五さんが、若いミュージシャンたちと共にJRの高架下や公園でチラシを配っていました。

 

「生きてりゃいいさ」

 

そのチラシには4・29大阪城野外音楽堂 復興の詩チャリティーコンサートと書かれていました。河島英五さんの呼びかけに賛同したイルカBORO桑名正博さんらがノーギャラで参加し、チラシ配りさえ業者を使わず、河島英五さんと仲間たちが手配りして費用を抑えるという、徹底したチャリティーコンサートでした。 

死者を悼んで大きな悲しみに心塞いでいる人々の一方で、自分や家族が生きていたことに安堵の胸をなでおろす人たち。そんな複雑な感情の交錯の中で、多くの人が言葉を呑み込み、沈黙を強いられた、そんな痛ましい災害でもあったように思います。

 

そんな中、河島英五さんは「自分にできることは何か」を考えに考え抜いて、やはり「歌うこと」だと決心されたそうです。「こんなときに音楽?」・・そんな声も少なくなかった中、歌うことはとても勇気のいる行動です。 

何人が集まってくれるか分からない中、当日、大阪城野外音楽堂には、チラシを手にした大勢の人たちが集まりました。そしてこの日、まだ震災の傷跡深い阪神復興の詩(うた)が響き渡ったのです。

多くの寄付金も集まり、コンサートは大成功。寄付金は復興のために寄付されました。そしてコンサートが終わった後、英五さんは、こう宣言しました。

 

「本当の復興には長い時間がかかる。すべての経費を自己負担して今後10年は【復興の詩チャリティーコンサート】を続けるつもりです」

 

その約束どおり『復興の詩』は、平成16年の第10回まで続けられました。そんな『復興の詩』で歌われた歌の中でも、もっとも人々の胸を打ったと言われている歌があります。

 

     「生きてりゃいいさ」

 

英五さんはこの歌をコンサートだけでなく、阪神各地の公園で、神社の境内で、道端で、歌い続けました。そのため阪神間の多くの人が、この歌を覚えています。

 

復興の詩10年

 

ただ、英五さんが約束した10回目の『復興の詩』のステージに、英五さんの姿はありませんでした。第7回『復興の詩』直前に、48歳の若さでこの世を去った英五さんは、第7回のステージに遺影の姿となって参加しました。

英五さんの遺志は、音楽活動をしていた3人のお子さんたちによって引き継がれ、第10回『復興の詩』までの約束が果たされたのです。その第10回『復興の詩』で得られた収益金は全額、震災遺児の育英のために寄付されました。

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音楽、スポーツにできること

 

 神戸では仰木彬監督が率いるオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)が、選手寮に備蓄していた水や食料を神戸市民に提供。選手たちも積極的に復興に携わりました。本拠地球場が被災し、練習もままならない中、「がんばろうKOBE」を合言葉に快進撃を続け、ブルーウェーブはその年、リーグ優勝を果たしました。

スポーツ誌Numberは「後の東日本大震災で、スポーツに何ができるかと多くの人が考えるのも、’95のオリックスの戦いがあったからだと思うんです」と書いています。

 

宝塚では、宝塚歌劇団のチャリティーコンサートが開かれました。同じ年、遠く離れた横浜アリーナ阪神淡路大震災チャリティーライブ」を催して阪神に届けてくれたレベッカNOKKOさん。泉谷しげるさんや森高千里さん、他にも多くの方々。

「音楽やスポーツにできること」がいかに大きなものだったかは、後の東日本大震災での多くのミュージシャン、スポーツマンの活動が証明していると思います。

 

そして九州へ

 

4月16日は河島英五さん没後15年の命日でした。大阪国際交流センター「あれから15年。父の唄を、娘が歌う、河島英五河島亜奈睦スペシャルコンサート2016~生きてりゃいいさ~」が催されました。

アンコールでは英五さんの映像に合せて「生きてりゃいいさ」をデュエットする親子共演が初めて実現しました。

亜奈睦(あなむ)さんは、東日本大震災の際にも被災地で父の唄を歌いました。そしてステージ上で、熊本で支援ライブを行い被災者の人たちに寄り添うことを誓われました。

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酒と泪と男と女』で有名な河島英五さんですが、私が好きなのはこの2曲です。もし興味ある方はご一聴頂けると嬉しいです。

★ 野風増 / 河島英五 - YouTube

★ 河島英五:時代おくれ - YouTube

     

   

 

熊本地震で被災された「あすとれいろーど」(id:astrayroadさんの4月24日の記事に心打たれました。特にこの言葉に。 

「九州は、熊本はこんなもんじゃへこたれない。格闘家の高瀬大樹選手風に言わせてください。九州最高!!熊本最高!!人生超絶好調!! やってやる。」

astrayroad.hatenablog.com

 

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恩送り Heal the kyushu

 

今日の記事は、softwind(id:kihaseason2015)さんの4月17日のエントリーに感銘を受けて書いています。記事は、こんな言葉で締めくくられていました。 

★恩送り Pay it forward 恩送り(おんおくり)とは、誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送り、そしてその送られた人がさらに別の人に渡し、そうして「恩(慈しみ)」が世の中をぐるぐる回ってゆくこと。社会の慈しみの連鎖が起きる。 恩送りは恩を返す相手が限定されず、比較的短い期間で善意を具体化することができる。

熊本、大分両県の被災地へ政府・自治体が支援、企業・有志&個人の方々も「恩送り」で応援 Pay it forward - 春夏秋冬・風に吹かれ、季節と共に生きて Blowing in the Wind ♪~

 

恩送り Pay It Forward 

 

『Pay it forward』(邦題 ペイ・フォワード)という映画をご存知でしょうか。原作は、キャサリン・ライアン・ハイドの小説です。

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ラスベガスに住むアルコール依存症の母と、家を出た家庭内暴力を振るう父との間に生まれた11歳の少年トレバーは、社会科の授業で「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら、何をする?」という課題を出されます。トレバーが思いついたアイデア「人から受けた厚意をその相手に恩返し(ペイ・バック)するのではなく、他の3人に違う形で恩送りして善意を広げていく(ペイ・フォワード)」というものでした。

Pay It Forward。映画の中では「恩送り」ではなく「次へ渡せ」と訳されています。 

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トレバーは、仕事に就かない薬物中毒の男や学校の先生、イジメられている同級生に対して試みてみるものの、なかなかうまくいかずPay It Forwardは失敗だったんじゃないか」と思い始めます。ところが、トレバーの気付かないところで、このバトンは次々に受け渡されていて、街中に親切の連鎖が広まる・・・そんなストーリーです。

  

トレバーのアイデアは、非常に単純なシムテムです。人から厚意を受けたとき、その相手にお返しをすると、その厚意は当事者間のみで完結して終わってしまいます。しかし、受けた厚意を次の人に別の形で渡したら・・・ 

でも、受けた恩への感謝を、受けた相手に返すことはできても、それを別の人に「広げていく」ことは容易なことではありません。それを実行するには、ある程度の余裕も必要でしょうし、経済的なものも必要でしょう。 

でも、どんなに余裕が無くても、お金が無くても、自分のことさえままならない状況でも、「マイナスのメッセージや行為を発しない」ことは可能だし、「プラスのメッセージや行為を発する」ことも可能だと思います。 

 

原作者キャサリン・ライアン・ハイドは小説Pay It Forward誕生のきっかけについて、こう語っています。

「治安の悪い街で車がエンストしてしまい、車に近づいてくる男2人に恐怖心を抱いてしまったの。でも彼らはエンストしてしまった車を快く修理してくれたのよ。そこから、この【善意を他人へ回す】という思考が誕生したの。」

 

痛みを癒せるのは

 

私は阪神大震災の時、伊丹空港に居ました。外に出て見上げた青い空と、空の下に拡がっていた光景を、今も忘れることができません。時が経つごとに理解していった状況は、筆舌に尽くしがたいものでした。 

ありとあらゆるものを失い、呆然と立ち尽くす人々。言葉すら失っていました。飛び交う音といえば、業火が家々を燃やす音、ときおり建物が崩れ落ちる音、サイレンの音・・ 

やがて街に、少しずつ人の声が聴こえ始めました。泣き声、わめき声、そして懸命に励まし合う声、慰める声・・・。

 

沢山の人が死にました。あえて「死にました」と書きます。

絶望が、街と人々を覆っていました。それでも、日が経つごとに、悲しみで覆い尽くされていた避難所にも、励ましの声が少しづつ広がっていきました。物資を持ち合わせている企業は、それを人々に提供し始めました。

それでも、食料と水は不足し、風呂どころかシャワーもままならず、人々は水源地に殺到しました。子供たちは不安で笑顔を失い、夜の闇は恐ろしさを倍増させていました。

やがて、救助隊やボランティアが次々に到着し始め、彼らが街を救い始めました。民間の支援物資も届き始め、暗く沈んでいた街と人々を、少しづつ優しさが癒していきました。  

 

今、神戸は、震災前の姿を取り戻しつつも、震災で失われたかつての街並みに代わって、若者たちの手による小さなお店が軒を連ね、新しい顔も見せています。彼らの中には、震災の時に幼子だった若者や、ボランティアで神戸に来てそのまま移り住んだ人もいます。彼らの明るい笑顔を見ると、震災当時のことを思い出し、思うのです。「世の中、捨てたもんじゃない」と。

 

Heal the kyushu 九州を癒そう

 

「駄目な世の中になった」「政治が悪い」「経済が悪い」・・こんな言葉をよく耳にします。しかし、現代社会をダメなものにし、子供たちから未来の社会に対する夢や希望を奪っているのは、他でもない私たち大人です。政治家が悪いと言うなら、自分がどれほどのことをしているのかが問われます。 

 

熊本大震災に際して、大人たちが作っている社会の様々な面が表面化しています。良いことも、悪いことも。「いのち」を助けようとする大人たち。こんな時に自衛隊の出動に反対する大人たち。

ネットでも同じです。SNSで貴重な情報を提供する人たち。デマを流す人たち。そのすべてを子供たちは見ています。そして、その子供たちが未来を築いていきます。

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Pay It Forward  

 

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